第二部 20五郎ちゃん 21荒ぶる魂の叫び

 

1982年、順調に売り上げを伸ばしていたソフトバンクに思いがけない難問がふりかかります。

それは、当時人気のあったパソコン雑誌三誌の広告掲載の拒否でした。

この拒否により、日本一のコンピュータ雑誌を作ってみせるという孫さんの熱い情熱が燃え上がり、月刊誌、さらに二誌同時に出すことを考えます。

そして1982年5月、ついに二誌の雑誌が創刊されますが、その2ヶ月後、想像をはるかに超える返品の山となってしまいます。

そこで孫さんは1億円をかけて、テレビCMを打つという大胆な行動に出たところ、なんと10万部を3日間で完売し、大成功を収めました。

 

部数5万部のうち、85パーセントの4万部以上が売れ残ったにも関わらず、莫大な金額を投資してテレビCMを打つ大胆な行動には驚かされました。

この本では孫さんの常識では測りきれない行動が何度も出てきますが、その度にその行動力と戦略によってソフトバンクの基盤が出来ていると感じました。

 

そして1983年を迎えたソフトバンクは、社員125人、売り上げ45億円と急成長し、順風満帆でした。

孫さんは土日も休まず、睡眠時間も削って働き、仕事に集中しすぎてほとんど何も食べない日もあったといいます。

ソフトバンクは定期検診制度も設け、孫さんも検査を受けたところ、肝臓の機能がよわっているため、いますぐ入院しないと命の保証はできないという現実を突きつけられます。

自分の入院は社員には伏せ、アメリカに出張中ということにします。 

孫さんはこの入院中、人生の意味を考えます。

自分は何のために仕事をしているのか、、

そしてその結論は、人のために喜んでもらえる仕事がしたいということでした。

 

私たちはこれから就活をするにあたって、企業選びをすることになりますが、その先には何のために仕事をするのか、人生の意味とは何なのかを改めて考えなければいけないことを実感しました。

私は土日も休まず働いて、睡眠時間がなくなるほどまでは働きなくないのですが、孫さんのように仕事が好きで、没頭できるような社会人になりたいと思いました。

 

第二部 18 事を成す 19 先見の明

 

日本ソフトバンクは福岡から東京に拠点を移したものの、事務所は机二つ借りただけのものでした。

ある日、上新電機の藤原睦朗という男が孫さんがソフトの品揃えの仕事をしたがっているが、仕事をさせてくれる相手がいなくて困ってるという話を聞きつけて電話をかけてきます。

孫さんはぜひやりたいと答えましたが、展示会や家賃、必要経費でお金が底をついていたため、大阪にある上新電機まで行く旅費さえ惜しい状況でした。

その状況のなか、上新電機の社長である浄弘博光さんがたまたま東京行く機会があり、そのついでに孫さんに会いたいと言ってきます。

孫さんはコンピュータ時代のことを熱く語り、誰にも負けない情熱、成功への確信を感じた浄弘社長は条件付きで独占契約を結びます。

その条件とは全国からあらゆるソフトを集めるということでした。

孫さんは北海道から九州まで駆け巡り、4500万円に上るソフトを集めます。

 

当時資金がほぼなく、事務所も小さい孫さんにあるのは夢と情熱だけでしたが、ソフトバンクを日本一にするために必死で目の前のことに立ち向かって行く姿に感銘を受けました。

また、その大きな夢を妄想ではなく、可能にしようとしていることが説得力と行動力から伝わってきます。

 

運転資金が底をついた孫さんは大手銀行に融資の話を持ちかけますが、実積も何もない若い経営者の夢と情熱に耳を傾けてはくれません。

ただ、現・みずほ銀行の御器谷さんだけは、孫さんの情熱に心を動かされ、そのことに気づいた孫さんは1億円の融資を希望します。

そして信用調査を経て、担保なし、保証人なしの1億円融資が決まります。

これはシャープの佐々木さんや上新電機の浄弘社長のように、何よりも仕事にかける熱い想いに多くの人が心を動かされたことが影響していると思いました。

 

第二部 17 巨人と天才

日本に戻って1年半が過ぎ、孫さんは自分が生涯をかけてするビジネスはコンピュータ業界だと確信します。

1981年の9月、日本ソフトバンクを設立し、パソコン用のソフトウェアの流通ビジネスをします。

毎年開かれる家電・エレクトロニクス業界の展示会、エレクトロニクスショーに資本金1000千万円のうち800万円を投じます。

桁違いの規模である松下やソニーと変わらない大きさのブースを借りたところ、サラリーマン、エレクトロニクス関係者などが多く訪れ、大盛況となりました。

そして孫さんはこのエレクトロニクスショーで、ショーに出品し人気があったシャープのポケットコンピュータのソフト集「ポケコンライブラリー」を全国の書店で販売するというアイデアを思いつきます。

シャープの佐々木さんの知人を介して東京旭屋書店の統括本部を訪れ、常務の田辺さんに出版したいことを話すと、売り物にならないと断られます。

しかし、ここで引き下がるはずがない孫さんはコンピュータがいかに今後普及していくかを話して説得し、ついに「ポケコンライブラリー」の出版が決定します。

これがまた見事に売れ、出版業界にも日本ソフトバンクの名を知らしめました。

 

孫さんはこれからコンピュータが伸びると確信するという、時代の先を見る洞察力がかなりあることが伺えました。

また、資本金の8割ものお金をかけてエレクトロニクスショーにブースを出展し、松下やソニーと肩を並べて大成功してしまうことには驚きました。 

そして次々とアイデアが浮かぶのは、孫さんの学生時代に発明したり、思いついたことをすぐメモに取ったりする癖から来るものだと思いました。

第二部 16 青春のドン・キホーテ

この章では孫さんが大学卒業するところから始まります。

 

アメリカの一流大学といえばハーバード、イェール、UCバークレーと言われていますが、孫さんはバークレーを卒業した後、ハーバード、マサチューセッツ工科大、母校の大学院から学費免除の条件付きで勧誘を受けます。

しかし、孫さんは研究したいのではなく一刻も早くビジネスがしたかったので

その誘いを全て断り日本に戻ります。

 

日本に戻った孫さんは会社を設立するための事務所をかまえ、ユニソンワールドという社名で会社を設立します。

そして、代表者名に韓国名である「孫正義」と記したところ、親戚から猛反対を受けます。

当時の日本では在日韓国人への陰湿な差別があり、韓国名を名乗ってビジネスをすることは日本では不利だったのです。

ただ、アメリカの自由な空気に慣れてしまった孫さんはそんなことおかまいなしにこの日本でこそ韓国人の名で生きて行くことを決意します。

 

会社を興し、事業のアイデアを基にいろいろ計画を立て、社員とアルバイトを1人ずつ雇います。

そんな中で長女が産まれます。

はじめての子どもを得た喜びが孫さんのエネルギーになり、「何かやるぞ」と思いますが、

決まっておらず、当時収入はゼロでした。

 

アメリカでいくらビジネスに成功していて、優秀な大学を出ても、日本に帰ってすぐにビジネスが上手くいくわけではないということが改めて分かりました。

現代の若者は、安定志向で結婚して子供が産まれると会社に勤める人がほぼほぼだと思いますが、孫さんは結婚して子供がいるにも関わらず、収入が安定しなくても自分のやりたいことに突き進んで、その孫さんを見守る奥さんも素晴らしいと思いました。

 

第一部 15 バークレーの春

 

孫さんは大学4年生にして、一流のビジネスマンになっていました。

レストランにゲーム機を置いてもらうよう交渉し、断られても全くめげません。

 

ある日、ゲーム機が壊れて客が文句を言っているという連絡を受けた孫が駆けつけたところ、原因がまさかのコインボックスにコインを入れすぎたため、動かなくなっているというものでした。

これを見た店長はぜひもう一台ゲーム機を入れたいと孫に言います。

 

半年間でゲーム機の数は350台になり、一億円を超える利益を生み出します。

この成功はほかのアメリカ企業の注目を浴び、北カリフォルニアだけで100社ほどが参入しました。

 

ソフトバンクアメリカの社長であったテッド・ドロッタさんによれは、孫さんは同じ日にサンフランシスコとニューヨークでそれぞれ人と会う約束をしていたといいます。

このことから、孫さんにとっては不可能だと思っていることがないのではと想像できます。

 

そして、会社が上手くいっているなか、孫さんは突然「日本に帰る」と言い出します。

その理由とは母との約束でした。

こうして、孫さんは日本に帰り、分野は決めていなかったが、日本一を目指します。

 

 

学生でありながら半年間で資本金ゼロから1億円の利益を生み出すことは、孫さんがただ天才だからというわけではなく、学生時代の努力と豊かな発想から生まれたものだと思いました。

また、このままアメリカでビジネスをしたほうがさらに成功する可能性が高いのにも関わらず、母との約束を破らず、日本でゼロから成功を目指す孫さんの姿に感銘を受けました。

 

第一部 14 夢追い人

この章では大学時代のシャープとの契約したところへ戻ります。

 

シャープとの契約に成功し、会社もオークランドの空港の近くへ移し、社名をユニソン・ワールドと変えます。

 

また、ビジネスパートナーであるホン・ルーの肩書きも「雑用」から「プロジェクト・マネージャー」に昇進しました。

 

シャープの佐々木さんは契約を交わしたあと、アメリカにやってきて、孫さんの会社の様子を見に行きます。

パートや研究員を合わせた15人のスタッフが忙しく働いているのを見て、佐々木さんは安心すると同時に、孫さんへの期待が大きくなっていきます。

プロジェクトチームは、一枚のICカードを入れ替えると、5ヶ国語に対応できる電子翻訳機を作り、これがのちの世界初のポータブル電子翻訳機に発展することになります。

 

孫さんは日本とアメリカを行き来するうちに、日本で起きているインベーダーゲームのブームを見逃しませんでした。

孫さんはこのブームが一時的であることを予想していた。

また、日本人は物事に熱中するが、冷めやすい、だがアメリカ人の場合はどうかと考えました。

 

そして、ブームが去った日本のゲーム機をアメリカのレストランに置いてもらうよう動き始めます。

 

世界初のポータブル電子翻訳機に孫さんが関わっていたのは本当に驚きでした。

また、日本のブームが去ったゲーム機をアメリカに取り入れるというアイデアは、孫さんのアメリカと日本の往復からくるものであり、留学生でありながらこのビジネスを思いついたのは非常にすごいと思います。

 

 

第一部 13 志士のごとく

この章では、戦国武将に憧れていた孫少年の中学から高校にかけて書かれています。

いちばんすごいと思うのは織田信長

いちばん好きなのは坂本龍馬

だったそうで、

「すごいというのはなかなか自分がなれそうもない人物、好きというのはどこか欠点があり、とても人間的で身近に感じる人物です」と述べており、この言葉には非常に共感しました。

 

幼い頃から小学校の先生か画家、または事業家、政治家といった職業につきたかった孫少年ですが、小学校の先生になるには国籍の問題で無理とわかり、それなら別の職業を目指せばいいと考えた孫少年は事業家になることを決めました。

 

中学時代は剣道部に所属し、主将として活躍、生徒会会長も務めました。

また高校時代は、医者の息子が多く通う難関校に合格し、入学してまもなく担任の先生に「学校を作ろうと思うのですが、協力していただけませんか?」という信じられないような提案をします。

これは孫少年の机上の空論ではなく、実践的な考えに基づいたものであり、カリキュラムをすでに組んでいたり、自分は先生にはなれないため、担任の現在の給料の2.3倍払うからぜひ教員になってほしいと言いました。

また、校長先生にも同じ話を持ちかけ、ヘッドハンティングしようと考えていました。

 

一般的な人は幼い頃の夢はケーキ屋さんだったり、野球選手だったりすると思うのですが、政治家、事業家といったなかなか知る機会のない職業を夢見て、高校生ながらに学校や塾を作りたいと思う孫少年には本当に驚かされました。

また難関校の先生、さらに校長先生までヘッドハンティングしようとする熱意、行動力を高校生のうちに持っていることは素晴らしいと思いました。